ありふれた日常に別れを告げて

 がブリタニアの地を踏んで既に一月。
周囲の状況は当事者本人を置き去りに慌ただしく運び、3日後には第二皇子シュナイゼルと皇との婚姻の儀が王宮内の礼拝堂で執り行われる。
 だが、はこの国に入国してからただの一度も、婚約者にも皇族の誰かにも、ましてや皇帝にすら逢ってはいない。
空港に降り立つや、抗議の声を上げる間もなくこの離宮に連れて来られ、日々エステと採寸、試着を繰り返す日々だったのだ。
「私、誰と結婚するんだっけ?」
 アフタヌーンティの準備をしていた侍女がその台詞を聞き咎めぎょっとしながら、東洋人特有の幼い顔を見遣る。
さま…」
「うそ、解ってる。シュナイゼルって言う人」
「そんな冷たい言い方をして欲しくないな」
 の不敬な言葉を咎めようとした侍女の声を遮り、柔らかな笑みを含んだ声が室内に落とされた。
慌てて振り返った侍女を無言で下がらせ、飛鳥の座るソファへと優雅な足取りで近づく。
「あの時の、皇子様」
 無感動な抑揚のない声は彼女には似合わない。
埒も無くそんな感想を抱きながらも、シュナイゼルは己の婚約者の右手を取ると、初対面の時同様、その甲に口付ける。
「やっと逢えたね?改めて、私がシュナイゼル。君の夫となる者だよ」
 絶えぬ微笑みを浮かべたまま、片膝をついたシュナイゼルはの滑らかな頬を撫でる。
「皇子様、私が必要なくなったら言ってね?そうしたら私、すぐにいなくなるから」
 その言葉にシュナイゼルはこの少女が、自分が置かれている立場を正確に認識している事を初めて知った。
いらなくなったら、つまり日本とブリタニアが戦闘状態に入ったら。
現在の膠着状態が解かれるという事は、日本が差し出した人質は用を為さなくなり、第二皇子の正妃でいさせる必要も無くなるという事である。
「そんな事には、ならないよ。、私はね、君が私の第一正妃でよかったと思っているんだ」
 シュナイゼルの言葉はまるで謎かけのようで、は首を傾げるしかない。
「今戦争が起きたら日本、負けるでしょ?なのに、私でよかったって?」
「そうだね。遠からずこの論争には終止符が打たれる。その結果如何に関わらず、私は君以外の妃を迎えるつもりはないんだよ」
「…お祖父様が本当はこの結婚に反対で、これから貴方の地位を利用する心配がないから?」
「正解。君の家族は祖父と幼い妹だけ。しかもとても高い矜持をお持ちだ。そんな方が人質同然で嫁いだ孫娘を利用してブリタニアの内政に干渉してくる可能性は、限りなく低い」
 これが他の、例えばブリタニア貴族などであった場合、その懸念は大きく、そして余計な面倒が増える。
その点においてもこの婚姻はシュナイゼルにとって好都合だった。
側室を迎えるなどの婚姻による基盤の強化も考慮に入れないではないが、それによる恩恵よりも面倒の方が遥かに大きいのだ。
「この先、私達のどちらかの身に不幸が降りかからない限り、私達は一対の夫婦として在り続けるんだ」
 いいね?と念を押すように覗き込む菫色の瞳に、こくりと小さく首肯したは自分の手を握ったままだったシュナイゼルの手を取り、その整えられた指先に唇を落とす。
「私も、決めた。皇子様の、シュナイゼルの奥さんになったらシュナイゼルが守るものを私も守る。だから、シュナイゼルも、ブリタニア以外の人達も必要以上に苦しまなくていい、そんな世界を…」
「約束するよ。いつの日にか、必ず」


 優しく、安心させるように囁いたシュナイゼルの言葉の意味を理解したのは、もっとずっと未来の事だった。